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review

詩人の恋

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相田冬二


ヤン・イクチュン、空砲のような激情

序盤のほうだったと思うが、主人公はこんなことを言っていた。

「詩人とは、誰かのかわりに泣くひとのことなんだ」

教えている学校の子供に、詩人ってなに? と訊かれ、彼はそう答えた。

詩的な表現とも言えるが、考えてみれば、スクリーンに映っている人物たちもまた、わたしたちのかわりに、泣いたり、笑ったり、怒ったり、呆然としたりしているのだと思う。

だとすれば、妻に養ってもらっている貧乏詩人のくせに、ドーナツ屋さんで働く青年に惹かれ、なにかと面倒をみるようになり、自分自身をコントロールできなくなっていってしまう彼の姿も、映画観客を代替する何かなのだろう。

若い同性への友情以上恋慕未満の、未知の感情との邂逅は、彼自身が詩作に生きる芸術家であるがゆえに、体験を表現に投影する<打算>にも転ぶし、発露されたその表現によって妻に<発覚>することにもなる。

ロマンティックなようで生臭く、また、現実とは無縁でもない。
主人公には同性愛の自覚がないので、この物語に彼を抑圧する<世界>は出現しない。

その点では紛れもなく<無法地帯>なのだが、子作りを目的とした性行為を求められることがストレスでしかない詩人にとって、そこが逃避場所としての<シェルター>であった可能性はある。

詩と生活は密接かもしれないが、詩作と生活は決して共存はしない。

ひとは、ロマンだけで生きているわけではないからだ。
詩だけではなかなか生活費を稼ぐことはできない、ということ以上の断絶が、そこにはある。

生活のなかに芸術があり、芸術のなかに生活がある。
それは理念としては正しいし、目標にできるものでもある。

だが、詩作という思考や行為と、生活を営むという現実のあれやこれやは、そもそも分断されている。

わたしたちは、この映画を観て、その恋には憧れるかもしれないが、詩人に憧れることはないだろう。

詩人という響きはロマンティックだが、詩人もまたリアルを生きる存在に他ならない。

ヤン・イクチュンは、常識と非常識、社会性と反社会性を、詩人の魂に穏やかに同居させながら、空砲のような激情を、浮世離れしない等身大のロマンとして画面に定着させている。


「詩人の恋」
監督・脚本:キム・ヤンヒ
出演:ヤン・イクチュン/チョン・ヘジン/チョン・ガラム
2017年/110 分/韓国
原題:시인의 사랑
英題:The Poet and the Boy

配給:エスパース・サロウ
©2017 CJ CGV Co., Ltd., JIN PICTURES, MIIN PICTURES All Rights Reserved

11月13日(金)より 新宿武蔵野館 ほか全国順次公開


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