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review

レオノールの脳内ヒプナゴジア

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相田冬二


マルチバースとも、パラレルワールドとも違う
エンドレスループ感覚

2022年度のアカデミー賞を席巻し、作品賞をはじめ、主要7部門を見事に制した「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」、通称「エブエブ」。

日本公開時は賛否両論だったが、時代のフェーズの推移を見事に捉えた画期的なアメリカ映画であった。ありきたりのファミリームービーのアレンジヴァージョンと捉えたい向きも多いようだが、転生に転生を重ねる「ステージの更新」そのものを見つめ抜いた、凡庸な人生の「果てしないリミックス現象」はそれ自体が「物語の終わり=始まり」と化した、極めて非凡なものだった。

「エブエブ」のウェーブは確実にスタートしている。しかもそれは「エブエブ」の後続としてのフォロワーが出現するということではない。

同時多発的に派生している。
つまり、影響ではなく、シンクロニシティ。

フィリピン映画「レオナールの脳内ヒプノゴジア」もまさにそうした一作。

奇しくも製作年は2022年。
監督のマルティカ・ラミレス・エスコバルは21歳の頃から8年かけて脚本を完成させている。

だから、「エブエブ」の関与などあるはずもない。しかし、両作には単なる同時代性を超越した「同時性」が感じられる。

とりわけ「終わらない物語をどう終わらせるか」という最終盤の大命題が一致してしている。

「エブエブ」の哲学性や倫理観の提示に魅入られた人にはぜひお勧めしたい。
これは「21世紀」を明確に映し出した、意志的な作品だからだ。

主人公は72歳の女性。
かつて映画監督だったが今は引退している彼女は、現実的な様々な悩みを抱えながら、未完だった脚本に着手しようとする。

しかし、その矢先、ある事故に遭い、生死をさまようことになる。
かくして、想像を絶する境界線上のアリアが奏でられていく。

なんと彼女は、昏睡状態で、幻の映画「逆襲のフクロウ」を脳内上映していくのだ。

そこには未完脚本の物語を完成させようともがくクリエイターの推移が記録されているとも言えるが、映像としては取るに足らないB級アクション映画の断片が連ねられているにすぎない。

しかし、この、構想中とも言えるし、頭の中で撮影しているとも言えるし、人生走馬灯の予告編とも言える映画の断片が、彼女を救おうとする現実世界とほぼ同じ質量で配置される時、わたしたち観客はこの映画が、創造をめぐる一大冒険活劇であったことに気づくのだ。

大きな枠組みはメタフィクションだが、それよりも、現実を生きるか、虚構に埋没するか、という問いが本作には苛烈に埋め込まれており、その痛烈かつ痛切な二者択一模様がすこぶる魅惑的だ。

主人公が完成させようとしている「逆襲のフクロウ」があくまでもB級アクション映画であるからこそ、その陳腐な設定、ありふれた展開、稚拙な演技、既視感のある活劇などなどが、この二者択一の問いに独特の鮮度を与えている。

おそらくこの女性監督が脳内の虚構に没頭している限り、楽しいことばかりではない現世に帰還することは難しい。

だが、果たして帰還に足るほどの価値は存在するのか?ここに、哲学と倫理が存在する。

マルティカ・ラミレス・エスコバルは20代のほぼ全てを費やし、祖母にインスパイアされた70代女性が主人公の映画を完成させた。

マルチバースとも、パラレルワールドとも違う「エブエブの時代」ならではのエンドレスループ感覚がここにはある。

幽霊と人間が平然と会話する世界観であり、陰鬱さはない。

どちらかと言えば明るく、ハッピーで、家族の愛情も描写される。

ところが、作者が自分が想像=創造した虚構のキャラクターに出逢う時、深遠な映画的マジックが生まれる。

果敢に脱構築していく最終盤は、「エブエブ」同様、賛否は分かれるかもしれない。

だが、生死の狭間を肯定的に、楽観的に捉えようとする果敢なポジティヴィティには一見の価値がある。


「レオノールの脳内ヒプナゴジア」
監督・脚本:マルティカ・ラミレス・エスコバル
出演:シェイラ・フランシスコ/ボン・カブレラ/ロッキー・サルンビデス
2022年/フィリピン/99分/
原題:Ang Pagbabalik ng Kwago 英題:Leonor Will Never Die
配給:Foggy、アークエンタテインメント



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