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エドワード・ヤン論

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夏目深雪


同時性をめぐって
「ヤンヤン 夏の想い出」特別上映に寄せて──

「ヤンヤン 夏の想い出」が35mmフィルムで特別上映されるというニュースを知った時、何よりもそれが公開時から20年ぶりだということに驚いた。

20年といったら生まれたばかりの赤子が成長して成人式に出る、そんな時間だ。そんな時間が経ってしまったことに、虚をつかれた。

この作品がエドワード・ヤン(楊徳昌)監督の遺作になってしまったので、作品の瑞々しい印象が凍結され、その後そのイメージが更新されることがなかったせいだろう。

初日の初回に観に行った私は、少なくない数の観客とともにこの映画と対峙し、映画をスクリーンで観ることの喜びに満たされた3時間弱を過ごした。

目の前に確かに別の世界が存在することを、その喜びを常に感じていた。それはコロナ禍によって稀少になってしまった喜びでもあった(この一年、試写の多くがオンラインになってしまった)。

だが、スクリーンで観たからといって、映画の全てがその喜びを味わわせてくれるわけではない。20年ぶりに観たのにもかかわらず、20年前のその風景が現在性を感じさせる──全く古びていない──のは、いったいどういう訳だろう。

今回は、「ヤンヤン 夏の想い出」から出発し、ヤンの映画世界を紐解いていきたいと思う。

恋愛と女性を描くこと

ソフト化されていない『海辺の一日』を除いてヤンの全作品を見直し、全ての作品において恋愛を描いていることに改めて気づかされた。

これはホウ・シャオシェン(侯孝賢)の「悲情城市」やウェイ・ダーション(魏徳聖)の「セデック・バレ」、と台湾の歴史を撮った作品が必ず一本は入る他の台湾の監督と較べるとよく分かる。

台湾はその特異で過酷な歴史からも、歴史を描いたり自らのアイデンティティを探るような映画を作らずにはいられないのだろう(ヤンにも外省人の子息であることが重要な要素となり、実際の事件を基にした「牯嶺街少年殺人事件」があるが、上の二作と較べるとそのスケールの組み方の違いとでもいうものがよく分かる)。

四方田犬彦は処女作(「光陰的故事」の中の「指望」)からして、女性の実存的不安がヤンの映画の作品の属性である、と述べた。<(※1)>

台湾映画の陥った低迷を打破しようと、中央電影公司が1982年に若手監督4人を集めて製作したオムニバス映画「光陰的故事」は台湾ニューシネマの嚆矢となった。

前年の81年にアメリカ滞在を切り上げて台湾に戻ってきたヤンは初潮の到来と初めての恋に揺れる思春期の少女を描いた。

長編第一作目となる「海辺の一日」は二人の女性がお互いの恋愛を振り返るという話なのだが、フラッシュバックが交錯する実験的な作品であった。

長編二作目の「台北ストーリー」も主人公は男性ながら、幼馴染みで腐れ縁の阿貞との関係が重要な作品であり、そのせいでラストの悲劇が起こる。

「恐怖分子」も恋愛映画とは言い難いものの、混血少女である淑安と、スランプ中の女流作家・周郁芬の二人の女性の存在と彼女らへの恋慕が作品の核になっている。

「牯嶺街少年殺人事件」は小明のファム・ファタルぶりが戦慄的な映画であり、主人公の小四はラストの悲劇に向かってじりじりと長い時間をかけて歩みを進めていく。

20年近くアメリカに滞在していたヤンは、ここではっきりフィルム・ノワールを引用している。

「牯嶺街少年殺人事件」は92年の公開当時日本のシネフィルを騒然とさせたが、フィルム・ノワールでは大人の成熟した女性にやらせるような役を、まだ子供にしか見えないリサ・ヤンにやらせているところが圧倒的に異様だった。

「恐怖分子」の淑安にしても、年若い女性の娼婦性がヤンの映画に鮮明な刻印を与えているのは事実であろう。或いは昔の恋人である会社の上司と浮気をする周郁芬といい、「台北ストーリー」の阿貞といい、年若くはなくてもその性的魅力が男性を破滅させる原因となっていくという意味ではファム・ファタルである。

ヤンは成瀬巳喜男に関する短いエッセイがあるように日本映画にも造詣が深い。

小明のような不幸な女性の造形には、成瀬や溝口といった巨匠が繰り返し描いた不幸な女性像も影響しているのかもしれない。

ヤンは、処女短編と処女長編が女性が主人公であることからも、女性を描くことに拘りがあったことは疑いがないだろう。

ヤンの映画の、存在するだけで男性を破滅させる(多くは年若い)ファム・ファタルは、現代映画をアジアのごく小さな島である台湾に移植するうえでヤンが取った戦略であった気がしてならない。

都市と匿名性  

とは言え、それはヤンがあくまで移植し、変奏したものであり、彼が創出したものではない。

台北を舞台にした恋愛映画といえば、普通は「台北の朝、僕は恋をする」(※2)のようなものを想像するだろう。

台北らしい風景を舞台に繰り広げられるボーイ・ミーツ・ガール。

ヤンの映画の特異性の一つとして、登場人物の多さがある。
「恐怖分子」辺りから顕著になったこの傾向は、ヤンの映画の難解さを特徴付けてもいる。

「恐怖分子」は特に、主人公がはっきりしない。
背景まで描かれるわけではない事件が偶発的に結びつき、最後のカタルシスまで複雑で有機的な繋がりを持つ。

男性主人公とヒロインに光が当たり、脇役が脇を固めるような登場人物の間の序列を、ヤンはこの映画から排した。

「牯嶺街少年殺人事件」はそれに較べたら小四と小明という主人公ははっきりしているものの、家族や級友といった脇役に当たる人物もしっかりと書き込み、それが4時間近い上映時間の長さの原因となっている。

「エドワード・ヤンの恋愛時代」も「カップルズ」も、そして「ヤンヤン 夏の想い出」も群像劇であり、前者2作は愛情と友情が、後者は主に家族であることが繋がりの原因となっているが、その関係が複雑に絡み合いながら動いていくところが映画の見どころとなっている。

特に今挙げた後期3作は、登場人物の関係性そのものによって、物語やテーマが表現されているのである。

いずれも1行で書けるようなテーマでもないし、単純なボーイ・ミーツ・ガールでもない。

ヤンの映画のもう一つの特異性として、建築や風景といった台北という都市そのものが登場人物の一つになっていることが挙げられるだろう。

「台北ストーリー」の序盤で、阿貞が上司とともに幾何学的な高層ビルの渡り廊下で話をしているところをガラス越しに捉えた美しいショット。

「ヤンヤン 夏の想い出」でティンティンとファティがキスをするところはロングショットで捉えられ、タクシーが信号で止まるのがそのすぐ右側で捉えられる。

同じく「ヤンヤン」でシェリーが、NJに「愛したのは君だけだ」と言われ、ホテルの部屋で一人で泣くシーンも、窓から東京タワーの夜景が見えている(泣くシェリーの姿は窓に映り込んでいる)。

都市の匿名性というテーマが最も前景化したのは『恐怖分子』であったが、その後に撮られた映画でもその感受性は生き続ける。

登場人物にとって何か重要なことが起きる時も、都市で車は走り続け、夜景はその美しい光を放ち続ける。

男性主人公とヒロインの恋心を盛り上げる(ように見せる)ために、都市の風景がピックアップされる恋愛映画とはほとんど真逆のことがヤンの映画では起こっている。

同等性と同時性

登場人物に序列をつけないと先に述べたが、建築や風景と人物の間にすら序列をつけないのだと言えるだろう。

同等性がいろんな意味で極まったのが「ヤンヤン」で、NJと昔の恋人シェリー、ティンティンとファティ、寝たきりになってしまう祖母、そしてまだ幼い少年ヤンヤンとおよそ4つのエピソードが交互にさほど強弱もつけられない形で展開される。

NJとシェリーとの恋心の再燃がクライマックスを迎えるところで、ティンティンとファティの恋も同じように思わぬ展開を見せる。

NJとともにタクシーに乗りながら日本の美しい夜景を見ながら、次のショットでは台北で恋の予感に震えるティンティンを見ることになるのだ。

祖母、父、娘&息子の3世代の人生を同時に堪能できるのが「ヤンヤン」であり、夜景を見ながらシェリーのことを考え、NJを見ながらティンティンのことを考え、NJとシェリーが歩く熱海の街を見ながら自分の体験を思い出したりする。

この「~ながら」というのが重要で、この同時性は観客に結構な負担を強いるが、だからこそその同時性が一つのシーンに結束するラストはえもいわれぬ感動を生む。

それはヤンヤンが亡くなった祖母へと贈る言葉である。
その中身が重要なのではない。

それは全ての事象にでき得る限り同等に──少年の恋も、10代の恋も、40代の恋も同等に──扱って来たこの映画にとっては、それしかないと言えるほど当然のものであり、それはつまり家族で最も年少の者が年長の者に贈る言葉なのである。全てがこれからの者が、全て終わった者に贈る言葉……。

同等性と同時性が網の目のように張り巡らされた映画であり、例え100年後に観たとしても、この映画の中の全ての風景が現在性──観客にとって目の前の光景を紛れもなく「現在」だと感じさせるという意味での、だが──を感じさせることは疑いがないだろう。

そして、常にファム・ファタルを登場させ、恋慕の帰結に(表面的には)拘泥してきたように見えた作家が、初めて3世代という長いスパンを真正面から扱い、その重層的な時間を台北と日本の都市空間の中で捉えた作品でもあった。

ヤンは映画の題材を実際の事件から取ることが多かった。

また、映画に撮るロケーションも、自分にイメージがあってそれに合った場所を探すというやり方ではなく、自分にとって面白いと思える場所や空間を見つけ、その場所の特徴に基づきながら役者の配置や動きが設計されたという(※3)

そのドキュメンタリー的とも言える手法が、ヤンの映画に真実味を与え、台北の現実を鋭く切り取ることになった。

だが、図らずも遺作となってしまったこの作品で、その手法をヤンは進化させ、再度フィクションの方に飛翔しているように見える。

“都市”を舞台に人間の営みの美しさを描く筆致は見事な達成を見せており、その射程は一つの恋愛や台北の現実を飛び越えている。

いつの時代でも、どんな場所に住んでいる人でも、男でも女でも、どんな世代の人でも、目の前に繰り広げられる世界は「今まさに起きている」としか思えないような臨場感を持つだろう。

いつ見ても胸をうつ普遍的な輝きを持ち続けている、まさに「人生そのもの」のような映画。私たち観客にとって、10年後でも30年後でも、観る度に様相を変える、何度でも新鮮な気持ちで味わうことが可能な、そう、まるで玉手箱のような映画なのである。

※1)「電影風雲」、白水社、1993年、259頁。
※2)ヤンの弟子筋に当たるアーヴィン・チェン(陳駿霖)の2010年の作品。
※3)ヤンの映画にスタッフとして参加していたホンホン(鴻鴻)のインタビューより。(「エドワード・ヤン――再考/再見」、フィルムアート社、2017年、52頁)

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「ヤンヤン 夏の思い出」



「ヤンヤン 夏の想い出」

監督:エドワード・ヤン
出演:ウー・ニェンチェン/エレン・ジン/イッセー尾形/ジョナサン・チャン/ケリー・リー
2000年/台湾・日本/173分

配給:バサラ・ピクチャーズ
©1+2 Seisaku Iinkai

渋谷 ル・シネマにて4月22日(木)まで上映中


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