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ホテルアイリス

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小橋めぐみ


男は、マリの髪を、ほどく。

「今でも毎朝、母はわたしの髪を結う。鏡台の前に坐らせ、束ねた髪を左手で引っ張り、身動きできなくする。頭の皮がゴリゴリ音を立てるほどにブラシを動かす。少しでも頭を揺らすと、左手にもっと力を込める。ただ髪の毛を支配されているだけで、私は全ての自由を失ってしまう。」

小川洋子「ホテル・アイリス」より

中学時代、校則で、肩につく長さの髪は必ず結ばなくてはいけなかった。

毎朝母は、私の髪をとかし、きれいに編み込んで後ろに結ってくれた。

学校で、水泳の授業のあとなど、乾かすためにしばらく髪を結わないで垂らしておく時、少しばかり自由を許されたような、解放された気持ちになったことを今でも覚えている。

大人になって、デートのあと、家に帰ってきた私の髪を母が触りながら「すごいボサボサになっちゃって」と言った時には、ドキっとした。それからしばらく、玄関前で髪を整えてから家に帰るようになった。

正面からは自分で見えない後ろ髪は、きっと多くのものを語っている。母親は、それを見ている。

映画「ホテルアイリス」の主人公マリは、長く、美しい髪の持ち主だ。

その髪を、マリの母親は毎日とかし、シニヨンにまとめてゆく。
一本の乱れも許さずに。
それが愛情の証だと思っている。

舞台は、寂れた海沿いのリゾート地。
季節は、夏のシーズンに入る少し前。
日本人の母親が経営するホテルアイリスを手伝っている少女、マリは、ある雨の夜、階上で響き渡る女の悲鳴を聞く。

赤いキャミソールのその女は、初老の男の罵声と暴力から逃れようと取り乱している。

茫然自失で、ただならぬその状況を静観しているマリに、男は、皺くちゃになった紙幣を渡して、雨の中を静かに傘も差さずに去っていく。

数日後、買い物に出かけたマリは、町の中で男を見かける。

カジュアルな格好をしている人が多い中、背広を着てネクタイを締め、背筋を真っ直ぐにして歩いていく男。

引き寄せられるように男のあとをつけていったマリは、砂浜に出たところで、「なぜ私のことをつけるのですか?」と、男に突然問われる。

緊張するマリに向かって男は、雨の夜のことを謝る。
どうか許してください。
ひどい夜だった、と。

男は、ロシア文学の翻訳家で、小舟で少し渡った孤島に、ひとり暮らしているという。

周囲の住人たちは、男が過去に起きた殺人事件の犯人ではないかと噂するが、やがてマリは男に導かれ、禁断の世界にのめり込んでゆく。

男は、マリの髪を、ほどく。

淫らで秘めやかな行為が、透明な光りの中で美しく、限りなく繊細に撮られていて、息を呑む。

この映画は、アンモラルなものを見せたいのではなく、寄る辺ない男女の愛を静謐に映し出している。

小川洋子さんの原作の美しい世界観を、壊さないように、誠実に、丁寧に。

それは例えば、一糸まとわぬ姿のマリを映す時の、光と影に。
切り裂かれた瞬間の、下着の切れ方に。
快感が溢れ出す、マリの表情に。

全てを見せずに、魅せていく、その撮り方も芝居をする俳優たちも、目指すところに寸分の狂いもない。

原作と映画の結末は、異なる。
でもその異なる道も地続きのように感じる、美しき改編だ。

ホテルアイリスの「アイリス」という言葉は、ギリシャ神話に出てくる虹の女神であることを、男はマリに教える。

神話の世界で虹は、あの世とこの世を繋ぐ橋で、アイリスはその虹の象徴だ、と。

あるシーンで見逃すほど微かにさり気なく、虹が出現する。
原作にはない、このシーンの儚さと温もりに、痺れてしまった。

マリは、台湾人の父親が不慮の事故死を遂げた過去を持ち、立ち直れずにいた。

男もまた、三年前に妻を亡くしている。
二人の近くには、死の匂いが立ち込めている。
それを抗うように、寂しさを埋めるように、男は命令を下し、マリは従う。

男にとって、マリはアイリスだったのだろうか。
いや、マリにとって男がアイリスだったのだろうか。
そもそもどこまでが現実の話なのか。

全てマリの想像の中の話なのか。
ラストに近づくほど分からなくなる。

それでも。
虹のように、やがて消えようとも。
美しい愛の記憶は、身体に深く刻まれる。

髪をほどいた少女は、ひと夏で大人になる。


「ホテルアイリス」

監督・脚本:奥原浩志 原作:小川洋子
出演:永瀬正敏/陸夏/菜 葉 菜/寛 一 郎/リー・カンション
2021年製作/100分/日本・台湾合作
原題:艾莉絲旅館 Hotel Iris
配給:リアリーライクフィルムズ、長谷工作室
©HASE STUDIO

2月18日(金)よりロードショー
新宿ピカデリー ヒューマントラストシネマ渋谷 シネ・リーブル池袋 他


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