*

「福岡」

CULTURE / MOVIE
「群山:鵞鳥を咏う」、「福岡」、「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」
チャン・リュルの映画に漂う「気配」

9月13日より開催される「福岡国際映画祭」。今年、「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」が公開されたチャン・リュル監督の特集が行われる。今回、特集で上映される「群山:鵞鳥を咏う」、「福岡」、そして今年公開された「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」を中心に、チャン・リュル監督作品、その世界と魅力を映画評論家・佐藤結が伝える。


「気配」が映っている。
 チャン・リュルの映画を見ながらそう感じることがある。
 例えば「群山:鵞鳥を咏う」の中で主人公であるユンヨンが、打ち捨てられたような廃屋にひとり入っていく。彼の後を追っていたカメラはいつの間にか彼をやり過ごし、部屋の中や窓の向こうに見える木の葉をとらえる。ここで映っているもの、あるいは彼が見ていたものはいったい何だったのか。
 「群山:鵞鳥を咏う」は、「かつて詩を書いていた」と語る正体不明の男ユンヨンと、彼が「ヌナ(韓国語で男性が自分より年上の親しい女性に対して使う呼称)」と呼ぶ女性ソンヒョンが、夜行バスに乗って西海岸の港街・群山(グンサン)に到着する場面から始まる。ひなびた食堂に入ってマッコリを酌み交わしたふたりは、「どこかで休もうか」と話し、女主人に勧められた奇妙な民泊にやってくる。

と、書くと、「まるでホン・サンスの映画のようだな」と思う人もいるかもしれないが、そんな観客の予想やユンヨンの期待を裏切るかのように、ソンヒョンの方にはまったくその気はないようで、ユンヨンよりもむしろ、自分たちを迎えてくれた宿の主人の方に興味を示す。
 舞台となる群山は、日本の統治時代に米を運び出す港として栄え、最盛期には1万人もの日本人が住んでいたという。街のあちこちに残る日本式の家屋が観光用に整備されており、映画の中にも主人公たちが庭園を歩くシーンなどが登場する。韓国の映画雑誌『シネ21』(WEB版2018.10.17)とのインタビューの中でチャン・リュルは、もともとは別の街・木浦(モッポ)を歩いていたときに日本式建物の残る一角に興味を持ち映画を撮りたいと思ったものの、ロケ地として目をつけた建物が文化財となっていて撮影できないとわかったため、群山へと変更。街としての印象がより柔らかだった群山を選んだことで、ストーリーの中に男女の愛をより多く盛り込んでいこうと考えるようになったという。

*

「群山:鵞鳥を咏う」

そんな風にチャン・リュルの映画は、いつも「空間」から始まり、「空間」そのものが私たちに語りかける。そこには「映画の中の時間や映画が撮影された瞬間」のみならず、それ以前やこれからの時間が同時に漂っている。彼の映画を見て「気配」を思うのは、かつてそこにいた誰か、あるいはそこで起こった何かを、見る者が感じてしまうから、なのかもしれない。
 「群山」には、韓国の“国民的”詩人として愛されている尹東柱(ユン・ドンジュ)の出身地が、現在、韓国へ多くの出稼ぎ労働者を送り出している中国・吉林省であることが指摘され、主人公の家で家政婦として働く“朝鮮族”の女性が彼の親族であるというエピソードが登場する。植民地時代には抗日闘争の拠点として知られ民族を代表する偉人を生み出した地が、今や異国となり、そこからやってきた人たちが、時に蔑みの視線を受けながら異邦人として働いているという歴史のアイロニー、時の流れが変えてしまった「空間」の意味がさりげなく描き出される。

上でもふれたインタビューの中でチャン・リュルは「歳月は流れたが、私たちは、植民地の風景から完全に自由になってはいない。外交官たちが歴史問題を外交的に解決しようとすることと同じくらい、日常に深く浸透し絡み合った歴史の残滓を覗いてみることも重要だ」とも語っている。歴史は、ある日を境に、きれいさっぱりと新しいものへと取り替えられるものではなく、薄い紙が何枚も重なって層をなすかように、いくつもの出来事や感情が積み重なっていて、どの部分を、どんな風に見るかによって、微妙に意味を変えていく(だからこそ、何度でも丁寧に見なければいけない)。チャン・リュルは、韓国、日本、中国という三つの国や文化が重なり合う場所にカメラを置き、その重なり具合を静かに見つめる。この「層(時間)の重なり」というイメージは、「慶州」における茶店の壁紙や「福岡」における古本など、チャン・リュル作品のそこここに登場している。

*

「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」

チャン・リュル映画の中の「気配」は、空間から感じられるだけでなく、ストーリーの中にも織り込まれている。近作である「慶州」、「群山」、「福岡」では、それぞれの主人公たちが訪れた旅行先で起こる出来事が描かれているが、彼らはいずれも、「今、ここにはいないもの」に導かれてその場所へとやってくる。「慶州」では、亡くなった先輩の葬式にやってきた男が、かつてその先輩と訪れたことのある街を巡り、「群山」では、主人公の目的地が母の故郷だったことが後に明らかになる。そして、「福岡」では、ソウルで古本屋を営む男が、学生時代に愛した女性の生まれた地で、共に彼女を愛したことで仲違いをした親友と再会する。さらに「慶州」では、すでにこの世にいないはずの占い師の老人が“登場”し、「福岡」でも、亡くなったはずの書店の主人と会ったというエピソードが披露される。このことは何を意味するのか。死者の魂とも言うべきものは、親しかった人たちの周りに、あるいは生前、彼ら彼女らが暮らしていた場所に、「気配」として漂い続けているのだろうか。もちろん、そんな問いに答えなどなく、映画の中にはただゆったりとした時間が流れていく。

目の前にあるはずのないはずのものや、いるはずのない人たちの「気配」を確かに感じてしまうチャン・リュルの映画たち。撮影前の10分間、たった一人で現場に立って構想を練るという彼のとらえたものに目をこらし、耳を澄ましていると、私たちがスクリーンのこちら側でも、様々な「気配」と共に生きているのだということに気づかされる。

Written by:佐藤 結


アジアフォーカス・福岡国際映画祭
上映作品

「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」公式サイト