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A PEOPLE CINEMA

アメリカから来た少女
ロアン・フォンイー

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相田冬二


見たくもない鏡の中の自分の姿を、
映画の核にしてみたらどうなるだろうか

自身の体験を基にした「アメリカから来た少女」で一躍、台湾映画界期待の星となったロアン・フォンイー。金馬奨をはじめ数々の映画賞に輝いている。

――わずか101分とは思えないほど、きめ細やかに、ある一家の肖像が紡がれます。当初から本作のイメージは掴めていましたか。

「脚本は18稿まで書きました。最初は、長女ファンイーの成長物語でした。そのときは、父親フェイや母親リリーの視点はありませんでした。そこからゆっくり、リリーに方向性を移し、母娘のストーリーとして一旦、固めました。その後、フェイや次女ファンアンを入れ、ひとつの家族を作り上げていったのです。当初から4人家族にして、様々な方向から描くヴィジョンがあったわけではありません。改稿を重ねることで、一層一層、階層を重ねていったのです」

――少女の成長物語は、映画の定番です。しかし、この作品はそうではありません。かと言って、ホームドラマの定型でもない。ファミリー・ツリーが枝葉を伸ばしていくように、それぞれの存在が広がっていきます。多感な13歳少女だけではなく、そこに難病を抱える母親を加え、ふたりの関係性を軸足としたのは、なぜだったのでしょう。

「私の母親が実際に病気になったとき、私の反応は強烈なものでした。母と娘の間で、かなりの衝突がありました。母と娘は鏡のようなものです。母を見ていると、まるで自分を見ているようでした。向こうにして見れば、娘を通して自分を見ているようなものだったでしょう。お互いに、見たくもない鏡の中の自分の姿を、映画の核にしてみたらどうなるだろうか。この考えから出発しています」

――そこでユニークなのは父親の像です。決して頼りになるような、器の大きな人物ではありません。しかし、主人公ファンイーは彼を慕っている。どこかウマが合うんでしょうね。その相性の良さが、母娘のシリアスな関係性を照射します。父と娘のありようは会話もどこかユーモラスで、安らぎを感じさせ、作品のいいクッションになっています。父親フェイのキャラクターは独創的です。思春期の娘と父親の関係は上手くいかないことが多いので、このふたりの距離感はとても新鮮でした。

「私と父の関係を、そのまま映しています。父は、私に、友達のように接してくれました。アメリカにいた頃は、父にあまり逢えなかった。この距離感が、父と娘を近づけていったのだと思います。距離感の妙は出したかったですね。父と一緒にいると自由な感じがして、それが良かったんです。確かに、頼り甲斐がなく、自由すぎるところのある男性かもしれません。ただ、フェイは、いい人になりたいとは思っている。

しかし、これがなかなか上手くいかない。妻リリーとは噛み合わないところがある。母親というものは、何から何まで目配りしたいところがあり、娘にとっては息苦しく感じる存在。ときに窒息しそうなほどでした。母親が苦しんでいると、娘も辛い。そのままダイレクトに影響する。母との関係、父との関係は大きく違いましたね」

――この映画の美徳は、個人を個人として尊重している点だと思います。親を、母親として、父親として見るのではなく、ひとりの人間として見つめています。良い母なのか、良い父なのか、ではなく、長女と同じ人間として捉えています。リリーもフェイもファンイーもみんな大変。だけど、個別に見れば魅力的でもある。ひとを役割で判断しないと、アイデンティティの価値は自由化しますね。

「そんなふうに感じてくださってありがとうございます。ひとりひとりを公平に描きたかった。脚本の改稿を重ねて、あるときは父親の視点、あるときは母親の視点で見ることができました。たとえば、父親が出ていないシーンでも、そのとき父親はどこで何をしているか、どう考えているか、これが背景になります。そんなふうに脚本を書いていました。

私たち人間は、誰だって、いい人になりたい。でも、そうはなかなかいかない。監督としては、ひとりひとりのキャラクターに対して、その人を個人として認める視点を大事にしたいと思いました。誰かを非難するようなことは、なるべくしたくなかったんです。 母親のことを脚本で書いていると、『こんな娘を持って可哀想だな』と思うんですよ(笑)。リリーの像もそんなふうに描いていきましたね」

――いい人になりたい。この言葉が、あなたの人間観だと感じます。だからこそ、次女ファンアンについての描写は印象的です。彼女は姉のファンイーに対して「お母さんはお姉ちゃんを愛しているよ」と伝えます。まるで天使のように、真実を伝達します。ファンタジーを感じるし、抽象的であり、象徴的、理想的でもある存在。同時に、誰もが本当はファンアンのように生きる可能性を有しているとも感じられます。

「とてもうれしいご指摘です。妹は幻想的ですよね。以前の脚本では、姉妹の間にももっと衝突のある設定でした。しかし、母娘の衝突がかなりのものなので、これでは衝突だらけになってしまう。姉妹の衝突は避けて書き直しました。衝突よりも、人間の温かな視線を、妹に託しました。妹を理想的な存在にしてみると、あの台詞も、実はファンイー自身の潜在的な意識の表れとして捉えることができると思いました」

――なるほど。ファンイーの潜在意識を、ファンアンが顕在化しているからこそ、抽象的な印象を受けるのかもしれません。その一方で、この映画は、SARSという現実を果敢に取り入れています。そのことによって、個人、家族、そして社会という三段構えになっています。SARSはいま見ると、コロナ禍に通ずる「分断」を孕んでもいる。SARSを導入したのはなぜですか。

「2003年、私たちがアメリカから台湾に帰ってきたとき、SARSが社会全体を不穏な空気で覆っていました。不安感に包まれ、壊れそうな雰囲気が漂っていた。一方、私の家では、いまにも家庭が崩壊寸前でした。母がアメリカから帰る決断をしたのは間違いだったのではないかと、当時の私は思っていたし、非常に惨めな想いもしました。SARSを描いたのは、隠されているものを描くためです。母に死の危機が迫っている。この大きな不安を描くために、SARSは必須でした」

――それだけに、ラストは難しかったのではないですか。深い余韻をもたらすラストカットは、私がこれまで台湾映画から受け取ってきたものであり、また、映画とはこのようなメディアであってほしいと感じられるものでした。

「思いがけない形で、ラストシーンは出来上がりました。脚本では、季節が変わり、夏になり、母の病状が好転していく……というものでした。実際には、SARS疑いだった妹が病院から帰ってきて『お姉ちゃん!』と声だけが聴こえる。顔が見えない場面になっています。なぜ、顔が映っていないかと言えば、撮影したその日、風がすごく強かったから。

スクリプターが『少し待ってから撮影しましょう』と提案し、とりあえず撮影を止めた。このことが結果的には、いまのラストになりました。本来の撮影プランでは、ファンイーが階段を降りてファンアンを迎えに行く。しかし、そうしたハッピーエンドではつまらない。風のせいで途中で止めたOKカットを使うことにしました。顔は見えなくいい。『お姉ちゃん!』という声が聴こえていればいい。あとは、この家族のことを、観客に想像してもらうことにしました」

――魔法の風が吹いたのですね。

「勉強になりました。テキストと、撮影には、大きな違いがある。このシーンで、そのことがよくわかりました」

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「アメリカから来た少女」



アメリカから来た少女
監督・脚本:ロアン・フォンイー
製作総指揮:トム・リン
撮影:ヨルゴス・バルサミス
出演:カリーナ・ラム/カイザー・チュアン/ケイトリン・ファン/オードリー・リン
2021年/台湾/101分
原題:美國女孩|英題:American Girl
©Splash Pictures Inc., Media Asia Film Production Ltd., JVR Music International Ltd., G.H.Y. Culture & Media (Singapore).
配給:A PEOPLE CINEMA

10月8日(土)よりユーロスペース(東京)にてロードショー


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