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サタデー・フィクション
コン・リー論

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小田香


コン・リーの表情が、キャラクターに血を通わせ
リアルな存在感を与える

1941年、真珠湾攻撃直前の上海の1週間を切り取ったロウ・イエ監督の「サタデー・フィクション」は、一人の女を中心に日中欧の諜報部員がしのぎを削る様子を描いている。

そのため、ジャンルとして括ればスパイ映画と言えるのだろうが、見ているうちに、これはあくまで熾烈な諜報戦の中で生きるユー・ジンという女性についての物語で、他の登場人物や時代の描写は彼女を引き立たせるための装置に過ぎないのではとさえ思えてくる。ユー・ジンを演じたコン・リーの存在がより、そう感じさせる。

ほぼ全土が日本軍の支配下に置かれた中国で、唯一占領を免れたゆえに“孤島”と称される上海の英仏租界。ここの蘭心劇場で上演される舞台「サタデー・フィクション」に出演するために、映画俳優のユー・ジンが香港から上海にやってくる。

その来訪に号外が出るほどの人気スターである彼女は、フランス諜報機関のスパイというもう一つの顔があった。ただユー・ジンは、美貌で男たちを手玉に取るといった、ありがちな女スパイのイメージとは大きくかけ離れている。

コン・リーは2010年、同じく1941年の租界を舞台にした映画「シャンハイ」に主演し、裏社会を仕切る男の妻と革命家という、これも二つの顔を持つアンナを演じた。だが、ゴージャスな雰囲気が際立っていたアンナと、ユー・ジンとでは佇まいが全く違う。

それは歳月のせいでも、今作がモノクロ作品だからでもないのは言うまでもない。大きな黒いサングラスをかけスカーフで髪を包んだユー・ジンが車に乗り込み、投宿先の高級ホテルで賞賛の眼差しを向けられる光景は彼女の大女優ぶりを示している。それでも、彼女からはスター特有の輝きは感じられない。

どこかくたびれたようで鬱々としたユー・ジンの表情から、彼女の心情を読み取ることは難しい中で、コン・リーの憂い顔は彼女が幸せでないことだけははっきりと伝えている。女優として演技をしていない時でも、スパイの任務のために様々な人物を演じてきたユー・ジン。

彼女にとって演じることが生きることで、生きるためには演じ続けなければならない。人は誰しも日常で何らかの役割を演じているとしても、演技がすべてという人生を選択するのは特別な人間だけだ。

ユー・ジンが演じる舞台劇のヒロイン芳秋蘭は、紡績工場の工員にして裏では共産党の闘士として活動している。ユー・ジン自身と似通った秋蘭の背景が、彼女をより複雑な人物に見せる。

秋蘭の恋人に扮した演出家は、舞台の外でもユー・ジンの恋人で、劇中劇で二人が会話する切迫した場面が舞台稽古の形を取りながら何度となく映し出され、同じセリフが繰り返されるたびに現実と虚構の境界がどんどんぼやけていく。

さらに、日本海軍の暗号専門家の亡き妻の美代子と、ユー・ジンが瓜二つであるという偶然を利用して、機密情報を得るために彼に接触する展開に混乱は深まるばかりだ。

一方で“マジックミラー計画”と名付けられた、フランス側の作戦の成否のカギを握るユー・ジンこそが、実は鏡の中に閉じ込められていることに気づかされる。

内側からは鏡にしか見えないが、反対側の人間には透明なガラスのように向こう側が見通せるマジックミラー。ユー・ジンはいくつもの人物を演じながら、ずっとそうした鏡の世界で生きてきたのではないか。それは、鏡と向き合う毎日を送り、常に人の視線に晒される彼女の生業ゆえでもある。

大女優コン・リーが演じる人気女優ユー・ジン、ユー・ジンが演じる芳秋蘭や美代子、その他あまたの人物……。彼女たちの影を追いかけても、結局は迷宮をさまようことになるのだろう。

孤児院出身のユー・ジンは自分がどこの何者か根本を知らず、自己の本質を見出せないまま、与えられた役を演じることで孤独を抱えて生きてきた。フランス人養父がユー・ジンを指して言う「どんな生き方をしようと、俳優であり一人の女性だ」という言葉こそが彼女の本質なのかもしれない。

その生き様は、デビュー作の「紅いコーリャン」以降、多くのチャン・イーモウ監督作でコン・リーが演じてきた、生命力溢れる女性たちをなぜか思い起こさせた。彼女たちとユー・ジンはまるで似ていないはずなのだが。

もしかすると、ユー・ジンも彼女たち同様に必死に生きただけなのではないか。コン・リーの生活感に満ちた表情が、一見浮世離れしたキャラクターに血を通わせリアルな存在感を与える。だからだろうか、モノクロの画面にもかかわらずユー・ジンが流す血は鮮やかな赤に見えた。


サタデー・フィクション
監督:ロウ・イエ
脚本:マー・インリー
出演:コン・リー/マーク・チャオ/オダギリジョー
原題:蘭心大劇院 Saturday Ficiton
2019年/126分/中国
配給:アップリンク
宣伝:樂舎 
©YINGFILMS

11月3日(金・祝)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、シネ・リーブル池袋、アップリンク吉祥寺、シネマジャック&ベティほか全国順次公開

ロウ・イエ監督特集上映
10月27日(金)よりロウ・イエ監督作7作を新宿武蔵野館にて上映
「ふたりの人魚」「天安門、恋人たち」「スプリング・フィーバー」「パリ、ただよう花」「二重生活」「ブランド・マッサージ」「シャドウプレイ【完全版】」


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作家主義 ロウ・イエ
発売日:2023年10月27日(金)、アマゾンほか一部書店にて発売
定価:2,420円(本体:2,200円+税10%)
発行:A PEOPLE
販売:ライスプレス


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